指先で味わう

われわれの生活はモノに支配されている。支配という表現が大仰であれば、規定されている、と言い換えてみてもいいかもしれない。

 

例えばスマートフォンもタブレットも普及する以前、茶の間にはテレビが鎮座し、ひとつのモニターに映る映画やニュースを観るために家族が集った。テレビの上はある種のディスプレー台となり、木彫りの熊のような民芸品のオブジェが飾られたが、薄型テレビの普及とともにそれらは姿を消してしまう。今や各々のデバイスでそれぞれのコンテンツを好きな時間に楽しむ家族は、かつての拠り所を失いつつある。茶の間を中心とする住居空間そのものの意味が変わりつつあるのだ。

 

20世紀の前半、工芸品の美から社会を変えようとしたのが民藝運動を提唱した柳宗悦であり、デザインでそれを試みたのがバウハウス、そしてその源流として19世紀英国におけるウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動があった。

 

バブル期以降、モノによる暮らしへの影響力は増す一方で、フランス映画のようにカフェオレを飲むためにカフェオレボウルを探し回り、高名なデザイナーが評価したケメックスのコーヒーメーカーを使用するために自宅でコーヒーを挽いて淹れるという逆説も当たり前。今や道具や必需品はその本質を失い、ライフスタイルを選択するための舞台装置と化している。

 

モノが小道具となりつつあった過渡期、つまり高度経済成長期以降に、あらためて生活からモノを考え直そうとしたのが工業デザイナー秋岡芳夫だ。モノの美しさを「用の美」といった曖昧な基準に還元するのではなく、メートル法以前の「身度尺」をあらためて提唱し、身体に合ったモノの合理性を説き、眼だけでなく手触りや重さもその評価基準として提唱した。

 

秋岡のエッセイに、コーヒーの器について考察したものがある。スープや汁物を、スプーンを使わず、器を口元に運ぶことによって味わう日本では、指でその温度を感じ、味覚と共に味わう伝統がある。熱を避けるための把手を備えたマグカップではなく、厚みのある湯呑で温かさを感じつつコーヒーを楽しんではどうかという提案だ。長手盆に置けばソーサーの代わりにもなるし、盆上に懐紙を敷き茶菓子を添えれば片付けも簡略化される。洋食やラーメンの例を挙げるまでもなく舶来の食文化を自己流にアレンジして取り込む日本らしく、リアリティのある提案だと思う。ところがそのエッセイは友人の一言で締められる。

 

「それはどうかな? 緑茶のティーバッグを把手のついたカップで飲んでいる学生も大勢いるよ。コーヒーを湯呑で飲むようなことにはまずなるまい」

エルサルバドル ロスアルぺス ウォッシュド
赤いコーヒーチェリーがさらに熟して赤紫色になったらいい頃合い。農園主のアイダ・バトルさんは収穫のベストタイミングを見逃さない。何度も何度も農園を往復し、完熟したコーヒーの実だけを手で摘み取るのだ。シェードツリーの木陰でゆっくりと熟したそのコーヒーは、華やかな香りと明るい酸味、甘い余韻が特徴。心地よい寸法の湯呑みでなら、濃厚なフレーバーをいっそう豊かに感じられるかもしれません。